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athanasius contra mundum

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http://homepage1.nifty.com/shingaku/p000008.htm

アタナシオス(アレクサンドリアの) 英 羅 Athanasius

時代 circa295-373 希 Athanasios

簡単な紹介                                           
「正統信仰の父」と呼ばれる。アレクサンドリア主教。325年のニカイア公会議をはじめ、その生涯のほとんどをアリウス主義との戦いに捧げた。司教在位45年のうち、5回の追放を受け、合計一七年間を亡命の地で過ごしている。

 

年表
295頃 おそらくアレクサンドリアで生まれる。

304-311 迫害を体験。アレクサンドリア司教アレクサンドロスに師事し、プラトン、アリストテレス、新プラトン主義などの古典学とキリスト教学を学ぶ。

318 助祭に叙階され、アレクサンドロスの秘書となる。

325 アレクサンドロスの随行員としてニカイア公会議に参加。

328 アレクサンドロスの死に伴い、後継者としてアレクサンドリア司教に選出。

335 アリウスのアレクサンドリア帰還を拒否したため、反対派の陰謀により無実の罪を着せられ、ティルス教会会議において司教職を罷免され追放される(第1回追放:335.7-337.11)。

337 コンスタンティヌス大帝の死によって新たに東方帝国の統治者となったコンスタンティウス帝の恩赦によりアレクサンドリアに帰還。

339 ニコメディアのエウセビオスらアリウス派によって開かれたシリアのアンティオキア教会会議において再び罷免。代わってカエサリアのグレゴリウスが司教に選出。アタナシオスはロ-マに逃れ、ここから彼とロ-マ教会との間に関係が生じる(第2回追放:339-346)。

341 ロ-マ司教ユリウスにより開かれたロ-マ教会会議において、ニカイア信条が再確認され、ロ-マからシリアのアンティオキアに書簡が送られる。

343 西方の統治者のひとりコンスタンス帝によって開かれたサルディカ教会会議に先立ち、ミラノでニカイア公会議における正統信仰の擁護者ホシウスと面会。サルディカではアタナシオス無罪が宣言される。これに対抗してアリウス派はフィリッポポリスにおいてアタナシウス罷免を宣言。

345 西帝コンスタンスの働きかけに東帝コンスタンティウスが動かされた形で、アリウス派の擁立したアレクサンドリア司教グレゴリウスの死に伴い、アタナシオスのアレクサンドリア帰還が許可。

350 ニカイア正統派の擁護者であったコンスタンス帝暗殺。翌年にはロ-マ司教ユリウスも死去。

355 帝国を統一したコンスタンティウス帝によって開かれたミラノ教会会議において、アタナシオスの断罪が宣言される。皇帝の軍勢の再度にわたる襲撃を受け、アタナシオスはエジプトの砂漠の修道士たちのもとに逃亡、潜伏(第3回追放:356-362)。この間、多数の著書を刊行。

361 コンスタンティウス帝の死去に伴い、新帝ユリアヌスが単独皇帝として即位。恩赦によって追放地にある司教たちに帰還が許可。

362 アレクサンドリア教会会議を開催。ニカイア派と半アリウス主義の融和をはかる。しかし、まもなくユリアヌス帝により追放される(第4回追放:362-364)。再びエジプトへ潜伏。

363 ユリアヌス帝の死と新帝ヴァレンス即位により恩赦。間もなく追放され、三度目のエジプト潜伏(第5回追放:365-366)。しかし4ヶ月後にアレクサンドリアに帰還し、以後はニカイア派後進の指導に当たる。

373 アレクサンドリアにおいて死去。

 

 

アタナシオスの評価いろいろ(1)
 「彼の著作は闘争から生まれている。行動家が文筆家であるのは希である。アタナシオスの哲学的教育はゼロに等しい。…この闘士は平和的な論議に携わることができなかった。アリウス派との闘争の進行中に、彼は激しい論争者であることを実証した。彼の論駁は鞭打ちの殴打のように襲いかかった。…
 彼は戦を快く感じ、手強く撃ち掛かり、言うまでもなく利子をつけて撃ち返すためには、自ら打撃を恐れずに受ける用意をしている。…彼は、説得力があるけれども味も素っ気もないという人ではない。彼は強制しようとはせず、納得させようと企てている。彼は議論し、証明している。いずれの場合にも彼は、相手を言い負かそうとはかっている」

フランスの教父学者アマンさんの評

アタナシオスの評価いろいろ(2)
 「古い観念と秩序のすべてが、新しいコンスタンティヌスの帝国教会の中で変化せしめられ、立て直されんとする教会史上未曾有の危機に際して、彼は皇帝たちやまた神学界の有力な代表者すべてを相手に戦うことによって、キリスト教の特質と内的独立を守り抜いたのである。彼の努力の結果、キリスト信仰は厳密な意味で神信仰であり、異教的、哲学的、観念論的なすべての信仰形式から本質的に区別されて残ることを得た。もし彼がいなかったなら、ハルナックの言うように、教会は『おそらく、完全に』エウセビオスのようなタイプの『哲学者たちの手中に陥り、その信仰告白は荒廃せしめられるか、あるいは《光り輝く霊性》を崇め尊ぶための帝国礼拝規定のようなものになっていたであろう』。アタナシオスは教会が文化進歩の理念に巻き込まれ、また政治権力に誘い込まれるのを救い出した」
ドイツの教会史家カンペンハウゼンさんの評

 

 

ロ-マからアンティオキアに送られた書簡の部分(341)
 「…もし彼らに過失があれば、教会の規定によって判断を求めるべきであった。すべての教会は何が正しいことであるかを知るために、私に手紙を書くべきであった。なぜなら、問題になった人(=アタナシオスのこと)は司教であり、関係した諸教会はただの教会ではなく、使徒たち自身が治めた教会だからである。特に、アレクサンドリアの教会については、なぜ我々に、何も書いて知らせなかったのか。まず第一に、我々に書き知らせ、我々によって正しく判断されるべきであることが、昔からの慣習であることを知らなかったのか。もし、アレクサンドリアの司教について、このような疑問を持つならば、ロ-マの教会に手紙を書くべきであった。…」
デンツィンガ-/シェ-ンメッツァ-、『カトリック教会文書資料集』、1982、p.29

(コメント)  これを読むと、アンティオキア教会会議の決定について、ロ-マ司教ユリウスが噛みついていることが分かる。アタナシウスに対してアンティオキア教会会議のとった処置(罷免)にはおそらく反対している。なお、この史料は引用した資料集の中では「ロ-マ教皇の首位権について」という見出しが付けられており、ロ-マの政治的立場の強化にも、この事件が利用されたことが分かる。

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